幕弁ブログ

私は電車で旅をするのが好きで、駅弁はその好きなもののひとつです。その中でも、いろいろな味が少しずつ楽しめる、幕内弁当が一番好きです。そんな幕弁のようなブログを見ていただきたいと思っています。

肥前『名護屋城』趾に立ってみた!

息子が奈良から博多に転勤になり、3年経ちました。彼女もできたと聞いたので、遊びに行きました。


博多から西へ車で1時間半、唐津の近くで水揚げされたばかりのイカを食わせる店があるというので、期待をしていきました。

 

が、天候の関係で漁はされておらず、がっかりしました。でも、ストックされてるイカとはいえ、造りや唐揚げ海鮮汁と新鮮な海の香りと味を堪能できる、大満足でした。

 

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食事の後、せっかく遠いところまで来たのだから観光しようということになり、思い出したのが来る途中に車から見た「名護屋城趾」という標識でした。戦国時代の歴史小説では度々語られる、秀吉の朝鮮出兵の際の渡航拠点として作られたのが、名護屋城でした。正確な場所は分かりませんでしたが、今自分達がいるここがそうでした。

 

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飯嶋和一の大河小説『星夜航行』に、その記述があります。以下、ちょっと長いですが引用です。

 

『 八月二十三日、秀吉は諸大名に対し、来年三月一日には明国征伐に出兵すると宣言し、名護屋城構築の奉行として小西行長加藤清正黒田長政を指名した。

肥前東松浦半島の北端、名護屋波戸岬は、玄界灘へ向かって西北に突き出ていた。岬の東は名護屋浦、西には串浦の入り江を両脇にひかえていた。とくに名護屋浦は東に呼子の地と接し、湾前方の加部島玄界灘の荒波をふせいで、湾内の波は穏やかだった。湾は入り組んで奥深く、水深は十二尋(約二十一・六メートル)から十六尋と十分にあり、大船を繋留するにも支障はなかった。有馬晴信の弟、波多親の領内で、海辺にささやかな漁村があるだけの、原生林に覆われた半島にすぎなかった。その波戸岬の中央部に位置する丘陵は、海から三十丈(約九十メートル)ほどの高みを有し、そこへ明国征伐の本営として総面積五万一千五百余坪(約十七万平方メートル)の大城郭が構築されることになった。

 

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十月十日、秀吉は、名護屋城構築の総奉行に浅野長政、そして設計責任を負う縄張奉行に黒田官兵衛孝高を命じ、城の完成を急がせた。同時に全国の大名諸侯には、それぞれの陣屋を肥前名護屋へ築くよう沙汰した。名護屋城周辺の小山や岡には百二十二およぶ大名陣屋が設けられることになった。城の周囲には家康や前田利家を始め後詰として名護屋待機の東国大名の陣屋が築かれ、渡海して出征する西国大名たちの陣屋は岬の縁辺部に設けられた。

 

全国から名護屋に送り込まれてきた職人と人足が陣屋構築に取りかかると、半島東側の名護屋浦から城に向かって南に延びる坂道づたいは、日を追うごと木皮葺きの家々が隙間なく覆っていた。連日五万人を投入しての大工事に、職人や人足はもとよりそれを監督する家臣団をあわせ、二十万もの人々が名護屋に集住することになった。人が集まればその需要を満たすために京と大坂、堺、博多の商人たちが次々と出店を構えた。明国遠征の間、名護屋に常駐して待機する東国大名とその家臣団だけでも約十万人におよび、二年前には海岸沿いにわずか漁民の家があっただけの岬に、突如として京をもしのぐ巨大な都市が出現した。

 

最高部中央に、ほぼ正方形をなして本丸が築かれた。本丸の北西隅に五層七階の天守がそびえ、本丸にはそのほかに高層の櫓が五基並び建って、それらの高層櫓を平屋造りの多門櫓が連結して固めるという構えだった。

もはや国内に秀吉の敵となる者はおらず、明国征伐のための本営として築かれたこの城は、京の聚楽第に匹敵する規模を持っていた。九州最大となる高層の天守を始め、秀吉の権力を誇示するための意匠が施された。この白亜の石垣城は、名護屋の丘陵上から遠く海を隔てて朝鮮半島、そして明国をにらんでいた。 』

 

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この狭い岬の3キロメートル内の地に、徳川家康伊達政宗など当時の名のある大名がほぼ全てが集まっていたんだと思うと、無茶苦茶感慨深いものがありました。また、普段小説や歴史書などの字面でしかお目にかからない太閤秀吉の、それを実現してしまうと同時に大阪城の次に壮大と言われる城をこの辺境の地にぶっ建ててしまう、権力の物凄さが実感として迫ってきました。