『アバター』レビュー ジェームズ・キャメロン監督
映画が封切られる前のかなり長い間、SONY(?)のBRAVIAだかのコマーシャルの背景として「アバター」の一場面が使われていました。ネイティリが鳥に乗って巨大な木の周りを飛び回るシーンでしたが、DCコミックの「アベンジャーズ」などとは違うCGだけど自然な解放感、爽快感がすごく印象的でした。
子供の時に読んだSF小説の陶酔感が甦る
昔、小学生の時に読んだSF小説 E.R.バローズの「火星のプリンセス」を思い出しました。遠い惑星で繰り広げられる冒険やロマンス。地球環境とはそもそも全然違うので、どんな想像も許されます。どんな生物が出てきても、違和感なくワクワクしながら読みました。キャメロン監督も私と同世代。きっと彼の作品群からヒントを得ていると思います。
映画が終わった帰り際、すれ違ったおばさん2人が、「あの場面は『ラピュタ』から取ってる。」とか「あの鳥に乗って飛ぶところは、『風の谷のナウシカ』ね。」とか話していました。確かに、キャメロン監督はこの映画に登場するいろんな物の発想を、過去の日本の優れた映画や自作から取って来ている様に思えます。
「アバター」はキャメロン監督の経験、思想の全てを含んでいる
『ラピュタ』の空に浮かぶ岩や、『ナウシカ』のグライダー。腐海もそうかも知れません。そして、自作の『エイリアン2』に出てきた、シガニー・ウイーバーやAMPスーツみたいなの再登場していたのも嬉しかったです。それと、私には、ナヴィ族の暮らすあの巨大な木は、アイスランドの伝説に出てくる『世界樹』を思い起こさせました。そんな遊び心も楽しめました。
キャメロン監督の映画はCGやVSXを駆使しながらも、できるだけそれを隠そうとするところに特徴があると思います。『タイタニック』の時もそうでしたが、大掛かりなCG作品であるにも拘らず、表現したいのは滅びていく物の憂愁の美や哀切、極限状態での人間の愛情や犠牲心であったと思います。
この『アバター』でも、描きたかったのは、パンドラという地球とは異なる惑星の環境の丸ごとであったり、色とりどりの夜光の幻想的な美しさであったり、アーチ状の岩石の息を呑む様な見事さであったりします。
キャメロン監督は自身も海洋探検家という1面も持っており、フィクションではなく実際のタイタニックの調査のために深海調査船で3800メートルの深さまで潜ったり、誰も見たことのない深海の生物を生態を調査したりしています。そして、それを全て3Dカメラで記録しています。
キャメロン監督はこの「アバター」で伝えたかったのは、単なる映画の楽しさだけではなく、自分自身が体験した未知なる星、未知なる環境の「共有」「追体験」ではなかったかと思います。
キャメロン監督は「アバター」で惑星の環境を丸ごと創造した
ジャングルの調査のために、ヘリに乗って湖の上を飛ぶシーンがあります。
その向こうをピンク色のフラミンゴをもっと大型にしたような鳥の群れが飛んでいます。へりとこの群れを重なるように望遠で撮っているのですが、これが嘘のように自然で、3Dで観ていると、本当にパンドラという惑星で撮影された実際のドキュメンタリーであるかのように思えてくるから不思議です。ストーリーの中ではなんでもないワンショットですが、私の最も好きなシーンのひとつです。
それと、主人公のジェイク・サリーが成人式を迎えたナヴィ・オマティカヤ族の若者達と共に、ハレルヤ・マウンテンというアンオブタニウム鉱石という飛行石のような鉱物の力によって空中に浮かんでいる山々に、自分専用のバンシーを見つけに行くシーン。空に向かって巨大なツタによって連なった岩を登って行き、そこから空中に漂う岩山から垂れる草の根につかまり、更に岩山と岩山を繋ぐぶっといツタを走って、目的とするバンシーの巣に向かうシーン。
2Dでは、いかにも成人になるための儀式や風景の精緻さだけが際立っているだけですが、3Dで観ると、おそらく地上数百メートルの危うい足場の上で繰り広げられる光景に、高所恐怖症の人なら耐えられないのでは、と要らぬ心配をしてしまいました。自分の心臓も心なしかドキドキしていました。
そして、自分用のバンシーを獲得したしたジェイク・サリーが族長の娘ネイティリと、空に浮かぶハレルヤ・マウンテンの間を縫うように楽しげにタンデムで飛翔するシーン。これは圧巻です。実際に地上数百メートルの上で縦横無尽に撮影したのですから。という程自然で精緻なシーンです。地上や眼前の岩山、そして隣を滑空するネイティリとの距離感が何しろ裸眼で観ている様に違和感がなく、自分自身も大空を飛んでいるみたいに少しの恐怖と高揚感、開放感に包まれてワクワクしました。
ジェームズ・キャメロン監督はおそらくこのシーンを撮りたいがために、この映画を作ったのでしょうね。
アバターの見どころ
何回も観てると前には気がつかなかった事が判りました。ナヴィ族のネイティリの手の指は4本なのに、「アバター」となったジェイク・サリーのそれは5本ありました。最初おかしいな、と思ったのですが、考えてみれば、ナヴィと人間のDNAを組み合わせて作ったハイブリッド人間である「アバター」は両方の特徴が具備されてる訳ですから、これは当然ですね。
顔が「ドライバー」である人間に似ているくらいですから。う~ん、芸が細かいなー。
それと、実写部分を3D化した場面と、「アバター」として行動する巨大な樹木やハレルヤ・マウンテン、バンシーに乗って飛翔する空中といったCGで丸ごと作った場面を比べると、明らかに後者のほうが自然な立体感が感じられます。このことは、主人公が3ヶ月間ナヴィ族と行動を共にした後に「どっちが現実か判らなくなってきた..」と呟く場面に、観ている方にも激しい共感を感じさせる根拠にもなっています。
これこそが、ジェームズ・キャメロン監督がこの映画で描きたかったことではないかと思えます。片や車椅子の生活で、半ば敗残者としての人生を余儀なくされている自分。もう片方は、リモートで動くアバターとは言え、自分の足でジャングルを走り狩猟する自分。バンシーを駆り空を自由自在に飛び回る自分。ディズニーランドのエレクトリカル・
パレードのように息を呑む程に美しい、色とりどりに植物が発光するジャングル。(動物達さえ少し発光するんですね)立体感そのものの樹上での生活。そして、ナヴィ・オマティカヤ族族長の娘ネイティリと恋におちる自分。どちらが真に生きていると言えるのか。主人公でなくとも考えてしまいます。
冒険と恋。まるでB級映画のテーマですが、夢のような虚構を、現実を凌駕するような現実感で作り上げてしまった、ジェームズ・キャメロンの「アバター」はまさに特A級であると思いました。
「アバター」の描く驚異の立体世界
手で触れるような存在感と重量感・質感が驚異的です。前は眼が少しおかしくなった実写や接写の場面が滑らかで、人の顔の凹凸や小さな物体までが違和感がありません。メガネだけでこれだけ違うのだとすると、オリジナルの立体映像は、ものすごく完成度が高いのだろうと思います。予告編でやっていたディズニーの『アリス・イン・ザ・ワンダーランド』は3Dに非常に無理があり、まるで、立体絵本を見ているような稚拙さでした。
「アバター」にアカデミー賞は関係ない
何故、6回も(うち4回が3D)足を運んでいるのでしょうか。ストーリーは当然同じな訳ですが、ハレルヤ・マウンテンという不思議で広大な空間を鳥に乗って滑空する爽快感、夜のジャングルでの夜行植物の幻想的な美しさ、ナウ゛ィ族の巨大な「ホームツリー」での樹上生活の「秘密基地的」な面白さは、何度観ても新鮮で感動的です。何故なら、「観て」いるのではなくて、アバターであるジェイク・サリーと共に「体感して」いるからだと思います。キャッチ・コピーにもありましたけど。ジェームズ・キャメロン監督の異惑星パンドラをまるごと再現(?)しようというこだわりといか意気込みにはものすごいものがあります。
加えて、ヒロインのネイティリの芯の強さや可憐さをCGの顔の微妙な表情や動作で表現してしまう、キャメロン監督の手腕と飽くなき探究心は、単なるVFXを超えていると思いました。前作の『タイタニック』でも感じたことですが、キャメロン監督は特撮監督出身にも拘らず女性の崇高な内面や感情の襞を描ける人です。それは映画全体に単なるCGスペクタクルを超えた「情感」が流れているからだと思います。それだから、何度観ても見飽きることがないのだと思います。
映画の中で主人公のジェイク・サリーがいみじくも言ったように、『世界が逆転したようだ。あちらが現実で、こちらが夢のようだ。』という言葉に激しく頷いてしまいました。空想の世界を現実以上の現実にしてしまった、「アバター」はアカデミー賞の範疇さえ超えてしまっているのかも知れません。
第82回アカデミー賞で、「ハート・ロッカー」と作品賞を競った「アバター」が、『美術賞』『撮影賞』『特殊効果賞』に「とどま」り、「ハート・ロッカー」に惨敗したと言われていますが、これのどこが惨敗なんでしょうか。
作品自体は、「よくありがちな」ストーリーで、B級映画(ストーリーがとても判りやすい、という意味で)ですし、人間の心の奥底を抉り出してもいませんし、社会の病巣を炙り出してもいません。その意味で、「作品賞」に該当しないのは、頷けます。
しかし、映画が始まって以来人々が映画に求めてきたものは、全て詰まっていると思います。つまり、辛くて変わり映えのしない現実や日常からなかなか離れることのできない人々を、地平線の向こうに連れて行ってくれる、それまで誰も目にしたことのない世界へ飛翔させてくれる、ということです。今も世界中の人々がそれを求めているのではないでしょうか。観客動員数がそれを証明しています。
私はこれで十分だと思いますが。また、最近アメリカでさえ低迷を続けおり、アカデミー賞さえそれに含まれる映画産業自体に、新たな地平を拓いた、という意味は限りなく大きいと思います。映画だけではなく、3Dテレビという新しい製品の強力な牽引役になったのも否定できません。私が、「アバター」はアカデミー賞さえ飛び越していると思う所以です。
肥前『名護屋城』趾に立ってみた!
息子が奈良から博多に転勤になり、3年経ちました。彼女もできたと聞いたので、遊びに行きました。
博多から西へ車で1時間半、唐津の近くで水揚げされたばかりのイカを食わせる店があるというので、期待をしていきました。
が、天候の関係で漁はされておらず、がっかりしました。でも、ストックされてるイカとはいえ、造りや唐揚げ海鮮汁と新鮮な海の香りと味を堪能できる、大満足でした。
食事の後、せっかく遠いところまで来たのだから観光しようということになり、思い出したのが来る途中に車から見た「名護屋城趾」という標識でした。戦国時代の歴史小説では度々語られる、秀吉の朝鮮出兵の際の渡航拠点として作られたのが、名護屋城でした。正確な場所は分かりませんでしたが、今自分達がいるここがそうでした。
飯嶋和一の大河小説『星夜航行』に、その記述があります。以下、ちょっと長いですが引用です。
『 八月二十三日、秀吉は諸大名に対し、来年三月一日には明国征伐に出兵すると宣言し、名護屋城構築の奉行として小西行長、加藤清正、黒田長政を指名した。
肥前東松浦半島の北端、名護屋の波戸岬は、玄界灘へ向かって西北に突き出ていた。岬の東は名護屋浦、西には串浦の入り江を両脇にひかえていた。とくに名護屋浦は東に呼子の地と接し、湾前方の加部島が玄界灘の荒波をふせいで、湾内の波は穏やかだった。湾は入り組んで奥深く、水深は十二尋(約二十一・六メートル)から十六尋と十分にあり、大船を繋留するにも支障はなかった。有馬晴信の弟、波多親の領内で、海辺にささやかな漁村があるだけの、原生林に覆われた半島にすぎなかった。その波戸岬の中央部に位置する丘陵は、海から三十丈(約九十メートル)ほどの高みを有し、そこへ明国征伐の本営として総面積五万一千五百余坪(約十七万平方メートル)の大城郭が構築されることになった。
十月十日、秀吉は、名護屋城構築の総奉行に浅野長政、そして設計責任を負う縄張奉行に黒田官兵衛孝高を命じ、城の完成を急がせた。同時に全国の大名諸侯には、それぞれの陣屋を肥前名護屋へ築くよう沙汰した。名護屋城周辺の小山や岡には百二十二およぶ大名陣屋が設けられることになった。城の周囲には家康や前田利家を始め後詰として名護屋待機の東国大名の陣屋が築かれ、渡海して出征する西国大名たちの陣屋は岬の縁辺部に設けられた。
全国から名護屋に送り込まれてきた職人と人足が陣屋構築に取りかかると、半島東側の名護屋浦から城に向かって南に延びる坂道づたいは、日を追うごと木皮葺きの家々が隙間なく覆っていた。連日五万人を投入しての大工事に、職人や人足はもとよりそれを監督する家臣団をあわせ、二十万もの人々が名護屋に集住することになった。人が集まればその需要を満たすために京と大坂、堺、博多の商人たちが次々と出店を構えた。明国遠征の間、名護屋に常駐して待機する東国大名とその家臣団だけでも約十万人におよび、二年前には海岸沿いにわずか漁民の家があっただけの岬に、突如として京をもしのぐ巨大な都市が出現した。
最高部中央に、ほぼ正方形をなして本丸が築かれた。本丸の北西隅に五層七階の天守がそびえ、本丸にはそのほかに高層の櫓が五基並び建って、それらの高層櫓を平屋造りの多門櫓が連結して固めるという構えだった。
もはや国内に秀吉の敵となる者はおらず、明国征伐のための本営として築かれたこの城は、京の聚楽第に匹敵する規模を持っていた。九州最大となる高層の天守を始め、秀吉の権力を誇示するための意匠が施された。この白亜の石垣城は、名護屋の丘陵上から遠く海を隔てて朝鮮半島、そして明国をにらんでいた。 』
この狭い岬の3キロメートル内の地に、徳川家康や伊達政宗など当時の名のある大名がほぼ全てが集まっていたんだと思うと、無茶苦茶感慨深いものがありました。また、普段小説や歴史書などの字面でしかお目にかからない太閤秀吉の、それを実現してしまうと同時に大阪城の次に壮大と言われる城をこの辺境の地にぶっ建ててしまう、権力の物凄さが実感として迫ってきました。
再び金剛山麓の「そば小舎」へ
吉野の田舎への帰り途、「そば小舎」に家内と二人で寄りました。3ヶ月ぶりです。
営業してないと近くに食事できる処はないので、予め電話で営業してるか問い合わせると、
「営業はしてますが、なるべく早くお越しください」とのことでした。
最近は食べログなどで人に知られるようになったためか、家族連れや高齢の夫婦(私達もそう)が多くて、混まない内にと12時前を目指して車で出発しました。約45分の距離です。
着いたら、驚いたことに広くない駐車場が満杯でした。なんとか隙間に車を押し込んで、店に入ると12時前にも拘らず、8組待ちでした。なんで?もう夏休みも終わったのに。
待ち時間を利用して、先に隣の高鴨神社にお参りに行きました。樹々の緑も目に鮮やかで、夏の日差しの下で影が濃く、蝉がわんわん鳴いているのが却って静寂を感じさせました。
結局、席に案内されたのは50分後でした。いつもの様に「ざる蕎麦(並)」を頼みました。毎回のことですが、最初はつゆに浸けずに食べると蕎麦の生の香りが鼻腔に広がって幸福感に包まれます。
それから、すり下ろしの山葵をつゆに入れて食べます。つゆはカツオと昆布の合わせで、舌に優しい味です。
この上なく単純素朴な食べ物なのに、何故こんなに美味しいのだろうと、これで十何度目かの感激をしました。
NHK 海外ドラマ 『DOC 明日へのカルテ』レビュー
NHK総合の海外ドラマ枠(毎週日曜日23時台)で放送された初のイタリアの医療ドラマ、『DOC 明日へのカルテ』をやっと見終わりました。
家内がうつ病で昨年1年間入院しており、退院後も通院を続けているので医療ドラマに対して忌避感があって、彼女がいる時は絶対見せてくれませんでした。
仕方なく16話を全部ビデオに撮って、家内がいない時にチョビチョビ見てたらえらく時間がかかってしまいました。
TVではシーズン1として、2022年10月9日から2023年2月19日まで、放送されました。シーズン2も2023年9月17日から放送予定なので、すごく楽しみです。
『DOC』は、イタリアで過去13年間に放送されたテレビシリーズの中で、最高の視聴数を獲得したそうです。
イタリアだけでなく、ポルトガルやスペインでも若い人を中心に支持を得ており、ポルトガルでプライムタイム平均視聴率を89%(!)上回り、スペインでは106%( ‼︎ )上回った、ということです。熱狂具合が伝わってきますね。
あらすじ〜Wikipediaより〜
『ミラノにあるアンブロジアーノ総合病院の内科医長アンドレア・ファンティは、類稀なる観察力で患者に対し的確な診断を下す名医です。
しかし、その卓越した手腕が自信過剰で傲慢な態度に表れ、「私は医者で、あなたは患者」と言うのが口癖になっています。その上、患者を番号でしか呼びません。
ですが、その才能は皆の認めるところで、彼の医療チームは医師としてのアンドレアを信頼し、同僚の女医ジュリア・ジョルダーノとは愛し合っています。一方で、その高圧的な言動により同僚や患者との間に摩擦が生じることもしばしばでした。
ある日、この病院で治療中に死亡した少年の父親が、アンドレアの医療ミスによって息子が殺されたと信じ込み、帰宅しようとしていたアンドレアを待ち伏せ拳銃で襲います。
弾はアンドレアの頭部の左側に当たり、集中治療室に運ばれました。一命をとりとめたものの、脳の一部である前頭前野を損傷したため、彼は過去12年間の記憶を失ってしまいます。
権威ある医長の座を失い、自分の勤務していた病棟の患者となったアンドレアは、同僚たちのことを思い出せず、病院長で元妻のアニェーゼ・ティベリと離婚したことも覚えていません。
しかし、アニェーゼと二人の子供に恵まれ、幸せな家庭生活を送っていた記憶だけは鮮明に残っていました。
2008年で記憶が止まっているアンドレアは、その間に進化した科学技術を理解できず、スマートフォンやタブレット端末の使い方も全く分かりません。
そして、記憶の抜け落ちたアンドレアは、未だアニェーゼのことを愛し続けており、彼女を取り戻すため様々な障害に立ち向かうことになります。』
①主人公アンドレア・ファンティは、言わば12年前からタイムリープしてきた人間です。
彼の中では、離婚した妻と愛し合っており、病気で幼くして死なせてしまった長男も生きています。そして今は20歳になる長女も、お父さんっ子の可愛い子供のままです。何ひとつ欠けたところがない、幸せな家庭が彼にとっての現実なのです。
②逆行性健忘症のため、医師としての行為は止められています。当然、内科医長の地位は失われ、「治療のために」ベテラン医師や研修医の後ろでオブザーバー的な雑用を許されているのみです。
しかし、内科医長として得た知見や経験は失われておらず、様々なタイプの医師の後ろから見ていることで却って担当医の見逃した点もよく見えます。
その上、患者を番号で呼ぶような傲岸さがなくなった(若い)彼は、患者一人ひとりの抱える問題に寄り添い、自分自身の至らない点も省みることができるようになり、病気の真実により深く鋭くかつ柔軟に迫ります。
③彼が銃で撃たれる原因となった、死亡した少年へ投与した薬が不適切だったことが判明しますが、実はこれは親友の副医長が処方したものでした。
カルテにはその時の彼のサインがありますが、彼はそれを隠蔽して医長になります。アンドレア・ファンティはそのため、自分の責任だと煩悶します。彼は真相に気づくことが出来るのか?
このように、『DOC』はファンタジーの要素、ミステリーの要素、サスペンスの要素を巧みに織り交ぜて進行するドラマです。
心地よい緊張感が中弛みすることなく、かと言ってその回の最後には温かい気持ちで見終わることができる安心感もあり、脚本がよく練られた優れたドラマです。
日本ではシーズン2もこれからですが、イタリアでは既にシーズン3も放映されているとのことです。シーズン2の視聴率次第ですが、当分『DOC』で楽しめそうです。
高嶋 哲夫『パルウイルス』レビュー
地球温暖化によりシベリアの永久凍土が徐々に溶け始める。
↓
閉じ込められていたマンモスの屍骸が姿を現す。
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その体内で何万年も眠っていた未知のウイルスが、接触した人間の一人に感染する。
↓
彼を媒介として、音速の速さで世界に向かって感染を始める。
↓
致死率60%。
それが「パルウイルス」のプロローグです。
永久凍土の解凍は実際に既に始まっています。何年も前に「NHKスペシャル」で特集されていました。そこで見つかるかも知れない、未知のウイルスについても指摘されていました。最大の懸念は、そこから何が出てくるか分からないことです。パンドラの箱は、ありとあらゆる災厄が飛び出した最後に「希望」が底に残っていたというオチですが、その「希望」すら無いかも知れない。
なぜなら、現在世界でパンデミックを引き起こしている病原体は、毎年変異を繰り返しています。逆にいえば元を辿っていけば既知の病原体に行き着くでしょう。ですが、何万年も前に感染により死んだマンモスからは、何万年も変異を遡ることになるため、まったく系統樹の違う病原体が見つかる可能性が大だからです。現在のワクチンに対する知見、経験が全く役に立たないかも知れない。
だから何よりも優先されるべきは、未知の病原体が拡散するる前に「封じ込める」こと。そために、「アメリカ人」の主人公がアラスカとシベリアの間を走り回るというストーリーです。
同様の「パンデミック」をテーマとした旧作に、「首都感染」があります。この小説はコロナの前に発表されました。結果的にコロナ騒動のシミュレーションのようになっていますが、舞台が日本国内なので政治や医療現場、防疫体制それに国民の動きに臨場感があって、私はこちらの作品の方が好きです。
パンデミックから人類が滅亡するという小説に、小松左京の「復活の日」があります。昭和の作品です。この作品は、火星から飛来した隕石に付着していたウイルスが感染源という、系統が全く違うある意味「パルウイルス」に似たシチュエーションが下敷きになっています。しかし高嶋哲夫の2つのパンデミック小説との違いは、火星の病原体の増殖過程を科学的に説明するという、ハードSFとして非常に面白い、それだけに恐怖を感じる筋立てになっている点が特徴的です。私はこれも好きですね。
馬見丘陵公園『つむぐマルシェPLUS』を見に行く
J•P•ホーガン『星を継ぐ者』レビュー 新版が出ました!
今年(2023年)の7月に、ジェイムズ・P・ホーガンの『星を継ぐもの』の新版が、東京創元社から刊行されました。本書が最初に刊行されたのは1980年のことで、私はまだ20代でした。
「月面で宇宙服をまとった死体(後にチャリーと名付けられる)が発見された。地球に運び込まれ、綿密な調査をした結果、チャーリーは生物学的に現代の人間とほとんど変わらぬが、五万年前以上に死んでいたのだ。これは、人類初の宇宙人との遭遇なのか?」
ハードSFが大好きで、天体物理も大好きな私は、この導入部に痺れました。それから数年の間に、4、5回は読み返した記憶があります。
国連宇宙軍は、さまざまな分野の学者を集め、この前人未踏の謎に挑みます。その中に、原子物理学者のヴィクター・ハントがいました。そして、彼を調査研究の調整役に抜擢するのでした。
彼は緻密な頭脳の持ち主で、他の研究者の推論をひとつひとつ緻密に検証し、取捨選択しながらある一つの壮大な仮説を導き出して行きます。この検証の過程が秀逸で、優れたミステリー作品の謎解きを読んでいるようで、知的興奮を抑えきれませんでした。
火星と木星の間に『アステロイドベルト』と言う、小惑星帯があることは昔から知られていました。そしてその小惑星帯は1個の惑星が破壊された名残ではないのか、と言う説があることもよく知られていました。
五万年前以上に死んだ宇宙人(人類?)と、この仮説惑星は繋がっているのか?実は、この検証は更に壮大な事態に繋がり、その後のシリーズ4冊へと引き継がれていきます。
どこまで想像力を飛躍させて行くんや!そしてそれが単に作家の妄想に止まらず、ひとつひとつの想像に科学的な血肉を与えているところが、J•P•ホーガンの他のSF作家との大きな違いだと思いました。まるで科学論文誌「サイエンス」を読んでいるような。
今冬には、シリーズ第5弾『ミネルヴァへの航海』(仮題)の刊行も予定されている。待ちきれません。